田舎の生活管理人・鈴木憲二のプロフィール

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母親の実家

私の乳母(山羊)・人物は母方の叔母家族
一緒に暮らしていた爺さんと婆さん、そして叔父や叔母。8人が一つ屋根の下で暮らす。叔父や叔母は子守をしてくれた。
家の前で遊ぶ子供達(昭和30年代)
幼稚園時代(昭和32年)
小学校2年生(昭和35年)
小学校6年生(昭和39年)
初めてモデルを見た(昭和45年)

トヨタ7(昭和45年)
東名高速開通後2年目(昭和46年・車はマツダカペラ)
21歳頃・学生時代・自動二輪免許を保有
※高校時代に取得(昭和48年)
24歳頃・東京で暮らしていた・会社の同僚と
(昭和51年)
36歳頃・多治見で暮らしていた
キャンプと釣り三昧
(平成1年)
38歳頃・静岡で暮らしていた
登山を盛んにする
(平成3年)

1952年に生まれた。乳母はヤギ

私は1952年3月4日(昭和27年3月4日)に瑞浪市内で生まれました。
母親に確かめたところでは母親は市内の実家に帰りそこで私を生んだそうです。
予定より一ヶ月早く生まれてしまい、体重は2400グラムで小さな赤ん坊だったそうです。
母親は乳の出が悪く、ヤギの乳で私を育てたそうです。
乳母は山羊でした。

自然や動物好きは子供の頃の原体験から

第二次世界大戦から五年ほど経っていましたが、インフラも整備されておらず、裸電球一灯だけの生活でした。
親達は百姓が忙しく赤ん坊の私に手を焼く暇はありませんでした。
子守は一緒に生活していた叔父や叔母が面倒をみてくれました。

生まれた当時の暮らしぶりは、現在の新興国と良く似ています。
自然が豊かでした。田んぼや畑で米や野菜を作り完全な自給自足でした。
どこの家にも鶏や羊やヤギが飼われており、犬も放し飼いで気ままな生活をしていました。
夏はハエや蚊が家の中を飛び回り、蟻も自由に家の中を走り回っていました。

当時は水がとても綺麗でした。
家の前を農業用水が流れていましたが、様々な生き物が生息して子供達の格好の遊び場でした。
またこの農業用水は生活の場でもありました。
水道が整備されていなかったため、風呂水や洗濯、野菜の洗い場としても使われていました。
川が綺麗だった理由は、合成洗剤の無い時代だったためです。
とても綺麗な小川でした。
今にして思えば、誰がこの綺麗な川を使えなくしてしまったのかと思います。

私だけに限らず、この時代に生まれた同年代の多くが、今でも自然や生き物が好きなのは、川遊びなどこの頃の原体験があったからと思います。
遊び友達は小川の魚やトンボ、そして蟻など様々な生き物でした。

テレビが普及し頻繁に放映された
アメリカ製ホームドラマが私達を洗脳した

私が生まれた当時は、今のように便利な生活ではありませんでしたが、しかしとても豊かな暮らしせした。
ほとんど自給自足の生活のため、現代社会で言われている「ECO」的な生活を実践していました。
食べ物は完全なリサイクルが完成していました。
野菜を育てる→野菜くずは鶏やヤギの餌→食べた後の排泄物は全て堆肥にして肥料に→野菜を育てる・・・
生活も合理的で、今のように二酸化炭素の排出など環境への影響などを考える必要もありませんでした。
車は無いのでガソリンは必要も無く、物を運ぶ手段はもっぱらリヤカーや大八車でした。
田んぼを起こすのも「ハネクリ」といわれていたフォークのお化けのような道具。
クワやカマなどの道具を使い全て人力で作業をしていました。

世の中の何もかもが変わり始めたのは、テレビが普及してからでしょうか。
アメリカのホームドラマが頻繁に放映されると、ドラマの中で登場する、大きな冷蔵庫を開けて牛乳を飲むシーンや 大きなステーションワゴンに家族全員が乗るシーンや、スイッチをひねるだけで火が点くガスコンロや明るく清潔そうな台所、 ひねると温水が滝のように流れるシャワーや雲古を水で流す綺麗なトイレに日本国民全てがあこがれました。

今にして思えば、このアメリカ製ホームドラマが 日本国民をそそのかしたようです。
江戸時代から続いた自給自足の質素な生活から、大量の石油を使用する大消費時代へと導いたようです。
東京オリンピックを境に電気、ガス、水道、道路などのインフラ整備が進み、経済発展は加速度的となりました。
これ以降、開発がドンドン進んで周りの田んぼや自然がみるみる無くなっていきました。
石油を買うために、皆は一生懸命働き造った製品を輸出して、石油を買うための外貨を稼ぎました。
生活水準は徐々に上がりましたが、一度覚えた便利な生活を維持するために、必死になって働くようになりました。
母親や婆さんまでもが外で働くようになりました。

中学、高校時代は退廃的な時間を過ごす

中学校と高校時代は特定のクラブに所属しませんでした。
集団で何かを行う事が嫌いだったためもっぱら帰宅組でした。
勉強も嫌いで何の目標も無く学校へ通学しました。
課外活動はもっぱら川遊びか釣りでした。
ただ、新聞の経済欄が好きでよく読んでいた記憶はあります。

学生の頃の3年間と社会人になってから3年を都会で暮らす

学生の頃3年間は、親の束縛から逃れようと名古屋で新聞配達をしながら学校へ通いました。
新聞店から提供された汚いアパートで生活しました。
風呂はなく、便所、台所はすべて共同使用、電気も一つのメータだったためラジオをつけっ放しにすると管理人に怒られました。

都会での生活は見るもの聞くもの全てが刺激的でした。
名古屋暮らしを始めてから一ヶ月ほどは繁華街や市内をうろつきました。
名東区の開発が盛んに行われていた時期で、自由が丘から藤が丘まで、山を削り道路を作る様子がパノラマのように見渡す事が出来ました。
あれから三十数年経ちましたが、今では広大な原っぱの面影はありません。
千種区の高級住宅街で新聞配達をしていたため、集金の時に金持ちの暮らしぶりを垣間見る事ができました。
田舎育ちの私には理解不能な暮らしぶりに驚いたものです。
女中さんの存在を現実として知ったのもこの頃です。

地方からの学生達と共同生活をしていたため、様々な生き方や考え方を知る機会にもなりました。
自分なりの考え方を持つ重要性を感じたものです。
少しだけ本を読むようになりました。大学の授業へも出席しました。
金は無く貧乏な生活でしたが一番充実した時間を過ごせたと思います。
しかし、新聞配達三年目にしてその頃始めた釣りが思う存分出来ないためアッサリと止めてしまいました。
それからの1年間は釣り三昧でした。

社会人になってからは勤務先が希望と適わず、いきなり東京で暮らす事となりました。
東京での生活では通勤電車がたまりませんでした。
ギュウギュウ詰めの車内で、全く見ず知らずの他人と肌と肌を嫌というほど押し付け合う毎日に、こんな生活は嫌と思いアッサリと三年で田舎に帰りました。
それと、好きな釣りが全く出来ない環境にフラストレーションが溜まりました。
釣りが出来ないので東京暮らしを止めたのが正直な理由です。
東京での生活は何とも退屈でした。
それ以降、釣り三昧の日々を送りました。

田舎へ帰り、27歳で結婚。子供は二人

田舎へ帰ってから1年ほどアルバイトをしながら生活し、26歳で再就職。
車の免許は就職前に取得。
半年後の27歳の時に結婚しました。
結婚式の費用は親が出してくれ、市内の農協のホールで行いました。
貯金は一銭も無かったので新婚旅行はくじで当たった航空券を利用して九州へ、妻の実家の車で九州を走り回りました。

30歳の頃にパソコンに熱中

30歳の頃にパソコンに熱中しました。
初期のパソコンでしたがマシン語を覚えようと必死でした。
マシン語で簡単なワープロやお絵かきプログラムを作りました。
しかし、その後仕事が忙しくなりパソコンから遠ざかりました。

35歳の時、転居と転勤で多治見と静岡へ行く。静岡での生活は楽しかった。

事情があり、長女が8歳の時に多治見でアパートを借りて生活しました。
この頃山登りに興味を示し、あちこちらの山に登りました。
黒部源流を目指したのもこの頃の事です。
多治見で2年ほど暮らしたのち、37歳頃静岡へ転勤しました。
多治見でのアパート暮らしは最悪でした。新参者には地域行事に参加する機会も無く退屈な生活でした。
静岡では3年間暮らしたが、静岡での生活はとても楽しかった。
静岡人は誰に対してもフレンドリーで、今まで暮らした名古屋、多治見、埼玉、東京とは全く違いました。
田舎もんの私は、初対面で田舎出身者と分かる容姿やファッションでしたが、そのような田舎もんでも何の抵抗も無く受け入れてくれます。
思えば名古屋に住む年下の妻の友人から「ダサイ」と面と向かって言われ、以来、物に対して価値観を持つ名古屋人が 大嫌いになりましたが、静岡では物への執着心やこだわりを感じることもなく、とても居心地のいい時間を過ごせました。

40歳で再び実家へ戻り家を建てる

静岡での三年の生活を経て田舎に帰りました。
小さな離れに暮らしていたため、妻にそそのかされて家を建てました。
高い買い物なので、家の事を真剣に勉強してから建てようと思っていましたが「早く、早く」という声に押されて 総二階の家を建てました。
しかし今になって反省することは、現代風の家は飽きが来るのが早い、またメンテナンスに異常に金が掛かるという事です。
クロス、屋根、外壁の継ぎ目など定期的なメンテナンスが必要で、資金も相当額必要です。
建設後5年目頃から、クロスを石膏ボードごと引き剥がし、新たに無垢の壁材を打ち付けました。
作業は正月やお盆休みを利用するため現在進行形で今も続いています。
また、この頃から頭が薄くなり始めました。
髪を洗うと別人になる自分に気づきました。
洗髪後に鏡に写る自分は「あんた誰??」と思えるほどでした。

49歳の時母親が崖を滑り落ちて半身不随に、父親はパーキンソン病が進行し介護が必要になる。

49歳の時、うつ病気味の母親が崖を滑り落ちて半身不随となり病院での生活を余儀なくされる。
頚椎を損傷し神経回路が切断されました。このため下半身が思うように動かない半身不随の身となりました。
一ヶ月後に退院はしたものの、一人では何も出来ないため「老人保健施設」での生活する事になりました。
父親もパーキンソン病が進行しヘルパーの支援が必要でした。
この頃から、父親が大半の作業をしていた田んぼの管理をする事となりました。
母親の介護、父親の介護、田んぼと一夜にして様々な事が積み重なり、覚悟を決める必要性に迫られました。

覚悟を決め父親の介護をする。そして一人で頑張る。

父親は体が動くものの、誰かに体を支えてもらわないとすぐ転倒するような状態でした。
介護申請をしたところ介護度2と認定されました。
母親は6ヶ月老人保健施設で暮らした後、「特別養護老人ホーム」へ入居しました。
病院から薦められて、あちらこちらの施設に入居申請を提出しておいたからです。
当時でも、特別養護老人ホームへの入居は2〜3年といわれており、奇跡的でした。
ちなみに母親の介護度は5でした。
突如、妻が「決めていたことだから」と家を出て行きました。理由が良く分かりませんでしたが、残された人生を自由に暮らしたいとの事でした。
慰留しましたが、聞くような相手では無いのでアッサリあきらめました。
父親の病気はかなり進行しました。
毎日、転倒を繰り返すありさまです。打ちどころが悪いと頭部打撲による脳挫傷のために入院する有様です。
嫌というほど、病院への入退院を繰り返しました。
父親も束縛される事が大嫌いなので入院先の病院から脱走を繰り返し、名前と入院先を書いた大きな名札を寝巻きに縫い付けられる有様でした。
あまりも転倒を繰り返すため老人保健施設への入居を考えて毎週のように入居申請を提出しました。
瑞浪、土岐、恵那、多治見、美濃加茂、御嵩、可児のほとんどの施設に入居を申請しました。
お陰で40日ほどあった年休があっという間に無くなってしまいました。

家事、百姓、介護に奔走する。人の暖かさに触れ大切なものは何かを知る

家事、百姓、父親の介護に奔走しました。
家事で一番大変なのは食事です。
父親と子供二人の食事を一手に引き受けました。
食事で難しいのは献立と味付けでした。
今までに経験した事が無いので料理本を読み漁り、味付けも徐々に上手くなりました。
朝5時に起きて朝食の準備、犬の散歩、洗濯、父親のディサービスの支度と目が回る忙しさでした。
このような忙しさが一年ほど続きましたが、父親の老人保健施設への入居が決まり、今度は毎日父親の世話のために可児市へ通うことになりました。
自宅から片道30分の距離です。
父親の病気もかなり進行し寝たきりとなりました。
入居先が、療養病院と老人保健施設の併設だったため、行ったり来たりを繰り返しました。
この間3年ほど、大雪のため道路が通行止めになった以外毎日父親の元へ通いました。
家事をしてからのため、入居先には10時頃の到着でした。
髭をそり顔を拭きタンをとるだけの事しか出来ませんでしたが、 生きている証でもあり、私には一生の内で一番幸せな時間でした。
看護師や病院の先生に励まされ勇気づけられました。
人の温かさを実感した瞬間でもありました。
残念な事に、入居してから3年後に父親は他界しました。
子供の頃からお互いにシャイで無口なため、会話をした事も、一緒に遊んだ記憶もありませんでしたが 父親の世話をした3年間は本当に幸せでした。
今は父親はいませんが、素晴らしい体験をさせてくれた父親に感謝しています。
父親の介護を体験する事により、感謝する事の大切さを実感しました。

父親の死後釣りを再開したが、殺生が出来なくて釣りを止める。代わりに水中撮影を始める

父親が他界してから釣りを本格的に始めました。
実は、父親の介護中も息抜きのためチョコチョコと釣りはしていました。
介護、百姓、家事と忙しいはずでしたが、時間を工夫し釣りに出かけたものです。
今にして思えば、よくそんな時間があったものだと呆れてしまいます。
ところが、どうも殺生が出来なくて釣りは止める事にしました。
しかし美しい岩魚やヤマメの姿を忘れなくて思い切って水中カメラを買いました。
水の中で魚達と一緒に泳ぎながらの写真撮影にすっかりハマリシーズン中は毎週のように川へ通いました。
本流から支流へそして源流へと活動の幅を広げ岩魚達の生態を垣間見る事ができました。
ただ、無計画な放流により魚達の生態系が混乱していて魚達の将来が不安です。

百姓を体験する事で自然の大切さを改めて感じる

父親の後を引き継いで百姓を始めました。
わずか一反のたんぼですが、仕事をしながらの農作業は大変です。
とりあえず、土日のいずれかを農作業に充てる事にしています。
たんぼで一番大変なのは草取りです。
草は除草剤を使っても大量に生えてきます。米も草も植物であり田んぼに稲だけ育てる事は植物にとって虫のいい話です。
米が育つ環境であればそれに類した草が生えるのは当然の事です。
無駄な抵抗をせず放っておけばいいのですが、草の生えた田んぼでは草の種が落ち将来に渡り草に悩ませられる事になります。
可能な限り草は取り除かないと大変な事になるのです。

田んぼでは様々な生き物が暮らしています。
蜘蛛やケラなどの虫や蛙や蛇などの両生類。そしてこれらを捕食する鳥やねずみ、モグラなどです。
田んぼの中は生き物達の生活の場でもあります。
最近になって、気になる事があります。
田んぼにいる虫の数が極端に少なくなってきたのです。
ザリガニ、蛙などの水生動物やバッタやハチなどの昆虫が、この五年の間に感覚的には半減したようです。
周囲には休耕田もあり、また夏場に行っていた農薬散布もしなくなり、生き物が生息する環境としては改善されている筈ですが 原因は分かりません。
そういえば、都会では虫をあまり見かけません。これは単純な事なのですが、土が露出していないからです。
虫達を人間は嫌いますが、良い土には虫は欠かせません。
虫や微生物は落ち葉や枯れ草を分解して、再び土に返してくれるます。しかし、土をアスファルトやコンクリートで覆う事によりこのサイクルが 絶たれてしまったようです。

百姓にとって土は命です。よい土が無ければ米も野菜もできません。
よい土を造るためには、土に微生物や生き物の栄養となる枯葉や枯れ草を与えなければなりません。
また微生物や虫が充分な活動をするためには、充分な光と、水がかかせません。
どれか一つ欠けても微妙な自然の循環が壊れてしまいます。
百姓をする事により、微妙な自然の変化を肌で感じるようになり自然の偉大さを実感しています。
また、自然を実感することにより、先祖達が大切にしてきた伝統や文化の本当のところが理解できるようになりました。
伝統的な祭りや祭事ひとつをとっても、その源流にあるのは自然に対して畏敬の念を現す姿であり、軽々しいイベントではありません。
現在ではお祭り事が金儲けの手段となりつつありますが、本来は自然に感謝する祭事であったはずです。
百姓を通じて自然の大切さを感じるにつけ、空々しい大規模なお祭り事に空虚さを感じます。

これから目指すところ

もうすぐ還暦を迎える年齢になりました。
子供も大きくなり一人立ちするようです。
単純に命の連鎖を考えれば、私の役目は終わったようです。
でも、まだ少しだけ生きられるようです。
物にこだわらず、与えらた範囲で、無理をせず、百姓をしながら暮らそうと思っています。
もしかしたら、人生で一番有意義な時間を過ごす事が出来そうです。
やりたい事は山ほどありますが、生きている事に感謝して平凡に暮らしたいと思います。??

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